政府統計の総合窓口(e-Stat)HPのデータを使って、市町村ごとの家計調査 を加工表示できます。
今回、「パスタ」について、関東(東京都)と関西(大阪市、京都市)の比較から始めて、消費ランキングとその理由を調べてみました。
(関西の街は、東京都より地域特有な点がありそうなので、2つの地域にしました。)
このデータで、「パスタ」にかける二人以上の世帯当たり支出は、東京が多く、順に京都、大阪です。
全国の家計消費ランキングも調べました。
消費は、東京が上位で、京都もやや上位、大阪は下位です。
全国では、第1位の広島、第3位の新潟、が気になります。
2021年消費ランキング上位の年別水位も確認しました。
2020年に消費が急増しています。
新型コロナに関係するのでしょうか。
そうならば、前々回記事「カップ麺」で見た消費理由「家にひきこもるため」と同じなのかもしれません。
WEB検索等で、パスタ消費ランキングの理由を調べてみました。
広島や新潟について、何かわかるでしょうか・・・
料理王国HPから、パスタに関して詳しい資料が得られました。
詳しさから、パスタに関する情熱を感じました。
「日本にパスタがやってきたのは明治時代といわれている。・・・明治初期、仮名垣魯文が書いた『西洋料理通』に「そうめん」の文字。これはマカロニをさしていたという。ほかにも「うどん」などとも訳され、パスタっぽいものをすべてマカロニと記していた。」
「明治後期、・・・日本初のトマトケチャップはカゴメが1908(明治41)年に発売。それがスパゲッティのトマト炒め、ナポリタンへとつながり、トマトの水煮缶を使った本格的なトマトソースが使われたのはずっとあとのこと。」
「1940年代、・・・ナポリタンの日本でのスタートは終戦後、アメリカに占領されていた時代に遡ることには間違いなさそうだ。アメリカ人がスパゲッティのケチャップ炒めを食べていたのを見たからだという。「横浜 ホテルニューグランド」説はそこがGHQの将校の宿舎として使われていて、そのケチャップ炒めを見た当時の料理長がトマトソースを使って洗練されたものにしたというもの。そのままのケチャップ炒めを提供したのは同じ横浜の洋食店「センターグリル」という説が有力。」
「1950年代、・・・1952(昭和27)年、新橋に「壁の穴」の前進「Hole in the Wall」開店。渋谷に移転し「壁の穴」となり、「タラコ」「アサリとしめじ」「お新香納豆」など和風スパゲッティを次々世に出し、ブームとなる。当時は「そば」「うどん」を食べる感覚で、箸を使い、ズルズル音をたてて食べる人が多かった。」
「1960年代、・・・日本製粉が「オーマイブランド」、日清製粉が「マ・ マーマカロニ(当時、日本マカロニ)」を販売。家庭料理にパスタが浸透していく。お弁当にスパゲッティが入っていることも。」
「1980年代、・・・海外旅行に出かける人が増え、「本場」を知るように。また、本格的なイタリア料理店も増え、日本人のパスタの好みも変わり、「デューラム・セモリナ100%」国産パスタも求められるようになった。イタリア産のホールトマトも一般化。・・・貿易の自由化を受けてイタリアから食材が輸入されるようになった。本場のパスタに不可欠なパスタ、オリーブオイル、瓶詰、肉加工品なども高級スーパーマーケットやデパートに並び始めた。」
(料理王国HP Journal #食文化 日本人はいつからパスタを食べているの?日本のパスタ100年の歴史。2021年2月6日)
つぎに、同じ料理王国HPから、イタリアンに関して詳しい資料が得られました。
「1889(明治22)年に、三田・慶應大学前に創業した「東洋軒」は天皇陛下の料理番や、宮中晩餐会の出張料理などを担った〝正統派西洋料理店〞で、この店は1895年に、イタリアから日本にパスタを持ち込んだ最初の店といわれている。・・・東洋軒としては、1950(昭和25)年に暖簾分けで独立した津支店のみが残る。」
「1881年に新潟で開店した西洋料理店「イタリア軒」は、フランスの曲馬団の賄い方だったピエトロ・ミリオーレが、興行中に病に倒れ、帰国できなくなったために、県令の援助を受けて開いた店。「新潟の鹿鳴館」と称され、日本初のイタリア料理店とされる。・・・ともあれ「イタリア軒」は日本初のイタリア料理店として全国に知られ、各地から料理人が修業にやって来た。ミリオーレのなかにあったイタリア料理のエッセンスを吸収し、彼の帰国(1912年)後も多くのイタリア料理人が巣立っていった。」
「1944(昭和19)年、イタリア軍艦カリテア号が神戸港に寄港した。しかし、入港中にイタリアが連合国に降伏し、乗組員は日本側の捕虜となった。彼らはすぐ開放され、多くはイタリアへ帰国したが、一部の乗組員は日本に残った。そのなかにいたのが艦の料理長カンチェミ・アントニオと乗組員ジョゼッペ・ドンナロイヤ、オラツィオ・アベーラだった。彼らは日本の女性と結婚し、イタリア料理店を開いた。それが神戸の「アントニオ」(44年)と「ドンナロイヤ」(52年)、宝塚の「アモーレ・アベーラ」(46年)である。「アントニオ」は、神戸から東京・南青山へ移転し、東京でオペラ歌手藤原義江に絶賛されたことで人気に火が付いた。「ドンナロイヤ」は、神戸の外国人居留地に店を開き、日本に滞在する外国人たちを相手に、彼らの社交場として賑わった。」
(料理王国HP Journal #歴史 日本のイタリアンの歴史Part1 (文明開化~戦後まで))
上記事で、東京・新潟・津に、イタリアンが広まったとありますので、
パスタ消費上位の東京・新潟・津の由来ではないでしょうか。
以上、残念ながら、消費第1位の広島の理由は、分からずでしたが・・・
広島には、1978年先駆け イタリアン AL MANDOLINO(アル マンドリーノ)が有名らしいですので、40年かけて熟成されたのかもしれません。
補足説明:家計調査とは、
全国約5千万世帯から約9千世帯が抽出される。
約1700市町村から地理的条件、都市の規模、産業的特色を加味して、168市町村を抽出、さらに約1400調査区に分割され、各調査区で6世帯とする。
2人以上の世帯では、6か月間、毎日、家計簿へ記入する。
支出した日に、家計簿へ記入する。
家計簿は、半月ごとに調査員が回収する。
1946年7月以降、一日も欠かさず続けられている。
(gacco講座「誰でも使える統計オープンデータ」)
補足資料:
長崎に関して、
「日本初の国産マカロニを辿ると、商品化第一号は大正12(1912)年。新潟県賀茂郡の石附吉治が横浜の貿易商に頼まれて開発した「穴あきうどん」だ。だが、実はそれよりずっと以前に、日本人は手製のマカロニを販売していたのだ。
マカロニ作りを指導したのは、フランス人宣教師マルコ・マリー・ド・ロ神父。1879年、長崎県黒崎村出津の里(現長崎市西出津町)に赴任した神父は、村人の貧しい暮らしを向上させるべく、私財で故郷フランスから優良小麦の種や畑仕事に使う道具類、さらにはマカロニ製造機も購入して取り寄せ、出津の人とともに小麦畑を耕して収穫し、水車を作って粉を挽き、それを用いてパンを焼いたりマカロニを作ったりしていたのだ。岩崎京子著『ド・ロ神父と出津の娘達』には、神父や信者が残した資料を元に、マカロニ作りの現場の様子が詳しく再現されていて、想像を掻き立てられる。」
(料理王国HP Journal #食文化 明治時代、それはマカロニからはじまった。〜中篇〜)
「明治末期にはすでにイタリア産パスタが輸入されていたが、うどんのような食感が日本人の舌と味覚にあっていたことからイタリア産よりも国産パスタが好まれていた。ところが、若者を中心に、本格的なパスタのシェアが急速に高まり、「かつては硬すぎるという批判が多かったデュラム100%のパスタこそ、本当のパスタの味であるという確かな認識の台頭があった」(『マ・マーマカロニこの10年の歩み』)ため、1986(昭和61)年に国産メーカーの大半が、デュラム小麦100%のパスタに舵をきったのである。」
(macaroni HP レシピ 外食ジャンル 各国料理(外食) 昭和40年代に今では考えられないパスタが流通していた話【イタリア料理の種をまいたイタリア好きの物語】#5)
長崎は、現在、消費ランキング下位です。 早過ぎたということなのかもしれません。
最後は、埼玉に関して、
「明星食品社長の奥井氏は、リッチ社と提携をむすび、明星リッチを設立。1965(昭和40)年4月、埼玉県に嵐山工場が完成し、スパゲッティとマカロニの製造をはじめた。その翌年6月、明星リッチが『月刊料理雑誌イタリア パスタの研究』を創刊する。」
「こんにち、パスタという言葉は子どもでも知っているが、『月刊料理雑誌イタリア パスタの研究』が発行されるまで、日本ではパスタという言葉が使われていなかった。発行人だった西村氏がはじめて紹介したのである。「当時の日本には、パスタという言葉は存在しませんでした。ロングパスタもショートパスタも、すべてマカロニと呼んでいました」」
(macaroni HP フード&ドリンク 外食ジャンル パスタという言葉を日本ではじめて紹介した本の話【イタリア料理の種をまいたイタリア好きの物語】#4)
上記、埼玉県にパスタ工場とあります。 現在、消費第6位さいたま市の由来かもしれません。